プロフィール

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訪問いただきありがとうございます。XIANGTEC代表のカイシャンです。最近「結局何してる人?」「どんな人?」という声が増えてきたので自己紹介ページを追加しました。

こんな滑り出しでいいのかとは思いますが、正直自己紹介ってうんざりします。自分が何者でもないことに向き合う時間は耐え難いものです。とはいえ、初対面の方との挨拶や転職のたびに絶望していては心が持たないので今回限りでサクッと吐き出してしまおう、そんな魂胆で書きました。劣等感や鬱を乗り越える方法についても偉そうに語ってるので参考になればと思います。

同じくエンジニアをしてる方やクライアント様に興味を持っていただけたら幸いです。

概略

  • 建築科→PC修理屋→インフラエンジニア
  • INTJ(合理的で好奇心が強い、器用貧乏)
  • CS修士課程
  • 朝が苦手

趣味

  • クイズ: クイズの対策メモをまとめたTwitter bot運営。みんはやランクS1。
  • DIY: 大学で木構造を学びCAD設計や構造計算ができる。
  • 将棋: いわゆる見る将で棋力は控えめ。振り飛車党。
  • ポケモン: 取り憑かれたようにピカチュウグッズを集めている。
  • 英語:4か国語を話す両親に負けまいと始めた。現在はアメリカの大学院に在学。
  • 積読:本は好きだが正直読む時より買う時の方が楽しい。

経歴

出木杉君と呼ばれた幼少期

既にパソコンの虫だった私には都合のいい家庭でした。コンピュータに疎い父が「これからはITだ!」と2年ごとに新しいものを買い、家には常に最新型のパソコンが置かれていました。学校では運動会で使用する音楽の編集を任されたり、昼休みのバスケではリーダーとしてチーム分けをしたり、腕試しに受けた中学受験は3校全て合格したり。卒業文集の一言紹介には「何でもできる出木杉君」と書かれました。

中学に上がる頃、ブログやオンラインゲームが大流行し、私もご多分に漏れず寝る間を惜しんで熱中しました。周りとどう差を付けるか考え、自然とプログラミングを覚えアダルトサイトを運営していました(タイトルがあだ名になったのは内緒の話です)。オンラインゲームでは、後に案の定対策されてしまいますが自作のマクロを組んで24時間レベル上げしていたため数ヶ月でランカーになりました。楽することは今でも最も好きな事の1つです。

部活を引退して進路相談の時期、私は近所の工業高校に興味を持っていました。窓越しに見える金属加工の大きな機械がカッコよく見えて仕方なかったのです。しかし、「バイクさえ乗らなければ犯罪でもなんでもござれ」という奔放な父親に大反対され衝撃を受けます。2番目に家から近いのは県内トップの公立高校でした。残された半年間がむしゃらに勉強し晴れて入学することになります。

睡眠障害と失意

当時家庭環境が不安定だったこともあり毎晩遊びに出かけだらしない生活を送っていました。当然夜は全く眠れず朝方気絶するように寝ては遅刻する生活を繰り返し、毎日職員室で数時間の面談を受けるようになりました。理解してもらえない不甲斐なさと起きられない自己への嫌悪で気が滅入ってしまい悪循環。耐えきれず2年生後期にこっそりと高卒認定資格を取得して退学届を出しました。そこはかなり歴史ある学校で10年以上退学者がいなかったことが理由でこれが大反対されます。しかし無理は言ってみるもので、進級する代わりに遅刻には一切口出ししないという約束を交わすことに成功します。今でも昇給交渉など大胆な駆け引きに出ることがありますがこれに味をしめた結果かもしれません。

ありがたいことに高校を卒業することはできましたが、特にやりたいこともなくふらふらと上京し遅刻の心配がない夜間大学に進学しました。相変わらず物作りが好きだったことから、自分の家でも設計してやろうと思い建築学科に入りました。木造住宅がやりたかった私ですが、木造なんてほんの一分野にすぎず期待していたことはほとんど学べませんでした。新しくて奇抜な提案を求められる課題ばかりで、構造を支える柱の太さなんて極論どうでもいいと言われました。工業高校に行って大工になるべきだったと何度も思いました。いつも下調べが足りません。出鼻をくじかれ、大学生活は単位がギリギリ取れるくらいの努力に留め、小さなパソコン修理業者でバイトを始めました。ビジネスの汚い側面も含めて沢山のことを学び、おじさんエンジニア4人と数百台は分解し修理しました。

何者にもなれない恐怖

大学の成績は最低限で、大した作品も残さないまま卒業。やはりやりたいことを見つけられず呼吸してるだけの生活、就活という発想すらなく、パソコン修理を続けることに。ボーナスもなく大卒とは思えない給料でしたが、学生時代いわゆる1軍2軍に属さずスクールカーストの外側にいた私は、資本主義の外側、つまり落ちこぼれでいることにこの頃は何の不安も抱きませんでした。とはいえ東京で暮らしていくためにはお金は必要ですから副業で家庭教師をしたりやイラストや動画制作をして足しにしていました。

文学一筋で若くして大学教授になった父は、私が小さい頃から何度もこんな言葉を言っていました。「何か1つ極めなさい、10年やれば飯が食える、20年やれば美味い飯が食える」。正しそうに思えますが、母に似て冷静で現実主義の私は、上には上がいることを嫌なほど実感していましたし、今から学んだところで同じ土俵に立てるなんて想像もできず努力しない理由にしていました。

こうして6年ほどモラトリアムから抜け出せず、周りの友人たちが次々とキャリアを築いていく中で、自分が取り残されているような感覚に襲われました。利益を優先する会社のやり方にもうんざりしており、慢性化していた不眠症も最悪の状態になり、ついにベッドから動けなくなりました。ゲームや読書に限らず食事や風呂まですべてのやる気を失ってしまい会社を辞めました。

なまじ器用に色々のことがこなせるため挫折を知らず情熱もなくこのままでは大成しないことがハッキリしてきていたんです。医学部の親友、大企業で3倍以上の給料を稼いでる親友、アーティストとして成功して東京ドームに立った親友を見てきて、このままでは何者にもなれないんじゃないかと自覚せざるを得ない年齢になっていたのです。自分は大器晩成型だからなどとうつつを抜かしてはいられなくなったのです。

どう立ち直ったか

これまでの私と言えば常に他人と比較し、自信を持てず10年どころか5年と続けたものはほとんどありません。自信がないから辞める、辞めるから自信がない、目も当てられないスパイラルですね。この期間は苦しいものでしたが、自分の価値観を構築する上で重要な役割を果たしていました。人間考え方を変えることは難しいですが理屈好きな私は以下のように考えました。

  • 自分ができることを明確にしてできないものは諦める

    諦めるということは自分を認めてあげることだと思います。朝が絶望的な私は始業が遅く勤怠の緩い会社を選んで会社の近くに住みました。自分ができることだけに集中して、どうしてもできないことはできないままでもいいと言ってあげました。

  • 他人とではなく過去の自分と比較する

    他者と比較して得た自信は脆く簡単に崩れます。逆にトップレベルの人々と比較して自分の価値を見失うのも非常にもったいないことです。今はトップ層まで行けないと分かってる競技性の高いゲームでも楽しむことができるようになりました。

  • 自信ではなく能力をつける

    「自信をつける方法」と調べて出てきた小手先のテクニックを実践して満足できるでしょうか。自信は結果の積み重ねであり、私が欲しいのは表面的な自信ではなく実力を伴った自信です。テストステロンがどうこうだから筋肉を付ける、じゃなくて能力を付けるのです。

そしてもっと大事なことだったと感じていることですが、たくさんゲームをしてたくさんファストフードを食べてたくさん寝ました。人と比べず悩みもせず何にも考えずに欲のまま食っては寝てを繰り返し、少しずつメンタルを回復しました。しばらくのニート生活の後、一念発起し転職準備を重ねインフラエンジニアとして上場企業に転職します。

再起動

当時流行っていた曲『かつて天才だった俺たちへ』の歌詞で「まだ見ぬ高みへ駆け込み乗車」という表現がありました。これが当時の私の絶望感と苛立ちを非常によく表しています。初めての転職活動がきっかけでこれまでの経歴を振り返りエンジニアとしてどう生きていくのかを真剣に考えました。とにかく手を動かさないと落ち着かず、国家資格の応用情報処理技術者とネットワークスペシャリストを取得し、今はコンピュータサイエンスの学位を取るためアメリカの大学院に在学中です。資格や学位はよく「足の裏の米粒」と形容されます。「気になるから取ってはみるけれど、食えはしない」という現実を揶揄した表現です。多少割を食いますがコンプレックスを抱えた一般人にはもってこいでしょう。体力と時間があるのも今のうちですしおにぎりができるくらい取ってやろうと思います。

さいごに

代表作も肩書も、私にはまだ何もありませんが今できることを一生懸命やるしかないと思います。ここに残す読みにくい文章も、作文が何よりのストレスだった私の挑戦ともいえるものです。敢えて恥ずかしいとは言いませんが文章を公開するなんて前の私には考えられないことでした。

長い間苦しめられていた睡眠障害とも通院して上手く付き合えており、家庭環境も改善し家族LINEも日々賑わっています。今は目の前のやるべきことに集中して、あまり考えすぎないことを心掛けたいところです。最後まで読んでいただきありがとうございました。